日めくり Evangelical World 伊豆

これでも花です、伊豆高原

2016年01月13日
ブラシの木も特徴的な花ですが、バンクシアも負けず劣らず、これも花と言えるのかと感じるような花です。オーストラリア固有の種で、約80種あると書かれていました。四季の花公園では時折珍しい種類が育てられています。育成には長い時間がかかるでしょうから管理する方は大変な忍耐を求められることでしょう。ご苦労がしのばれます。


80種あると言っても、写真のバンクシアはオーストラリア東部のもので、山火事や細菌によって消失していくものが次第に多くなっているのだそうです。植物の過酷な自然に立ち尽くしたまま対応してゆかねばならない大変さを思いやります。

マルクス アウレーリウスがこう書いていました。『私は善と言うものの本性は美しく、悪と言うものの本性は醜いことを悟り、悪いことをする者自身も天性私と同胞であること・・・それは何も同じ血や種を分けているというわけではなく、叡智と一片の神聖を共有しているということを悟ったのだから、彼らのうちだれ一人私を損ないうるものはない。というのはだれ一人私を恥ずべき事に巻き込む力はないのである。また私は同胞に対して怒ることもできず、憎むこともできない。何故なら私たちは協力するために生まれついたのであって、例えば両足や、両手や、両眼瞼や上下の歯列の場合と同様である。其れゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。そして人に対して腹を立てたり毛嫌いしたりするのはとりもなおさず互いに邪魔し合うことなのである』と。 アウレーリウスの程の人ならこのように実行することが出来たのだろうが・・・。昨日もトルコでテロが起きたと報道されていました。すべての人が自分の手や足であると考えることが可能であれば、憎しみや怒りは本より生じないだろうと思う。己の細やかなる日々に於いても実行するにはまだまだ難しく感じている。彼のように考えることが出来れば、ずいぶんと愉しい囚われない毎日になるであろうに。  

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伊豆高原のシャングリラ

2016年01月11日
このところ晴天続きです。真っ青な空に顔を向けて極楽鳥花が咲いています。年に2回咲くのですが、気候によってはオールシーズン咲くそうです。いつ行っても咲いていると感じるのはそのせいだった。



気温は3℃以上でないとだめなので、エリアによっては伊豆でも露地では育てられません。伊豆高原は海岸線近くは暖かく、大室山付近では高低差で冬は雪が降ることもあります。城ヶ崎エリアの別荘地の庭にはこの極楽鳥花はさほど珍しいものでもありません。南アフリカ原産ですから、城ヶ崎は暖かいということです。切り花としても2週間はもつようですから、何かのお祝いごとに飾るのには最適かもしれない。バショウ科ストレチア属と言うことですから、葉っぱもノビノビとしていてリゾート地の植物としてのイメージぴったりです。

こんな方がいるのかどうか知りませんが、『魂の偉大さを持ちうる人は、心の窓を広く開けて、宇宙の四方八方から心に風が自由に吹き通うようにするだろう。彼は、自分自身を、生命を、世界を限り有る身の許す限り、あるがままに見るだろう。人間の生命の短さと微小さをわきまえながらも、同時に、個人の精神の中には、既知の宇宙に含まれている価値あるものが全て集約されていることを悟るだろう。又彼は世界を映す鏡の様な心を持った人は、ある意味では世界と等身大に偉大になる、という事を知るだろう。環境の奴隷に付きまとうもろもろの恐怖から解放された時、彼は深い歓喜を覚えるだろうし、外面的生活にどんな浮き沈みが有ろうとも心の奥底では幸福な人間であり続けるだろう』とラッセル卿が書いていました。人間の様々な不完全さを克服するのは不可能でも、その恐怖から解放されるとしたら精神の平安を得ることが出来るだろうことは想像できます。たとえ体力は失われようとも、頭の中の宇宙は自由闊達であろうと思うから。  

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暦は進んでいるか、伊豆の花

2016年01月09日
名前の音が好きでなかったので、見ても見なかったことにしていた金盞花。本来は南ヨーロッパが原産だそうだから、どうしてこんなあか抜けない名になったのか。カレンデュアが本当の名前で金盞花は中国語でそのように呼ばれていたのを日本語読みにしたとのことです。


ラテン語のカレンダエ(暦)が本当の語源だと書かれていました。日めくりのカレンダーの如くに花びらが沢山あるからなのか・・・。よく見ると豪華だが丈夫そうな感じのする花です。春から初夏にかけて開花するのですが、さすが伊豆は暖かい国である証左なのでしょう、今現在、真っ盛りに咲いています。

『学問は遠くから眺めていても面白くない。学問の世界に入り込むことが必要だ。初めは無理にやらねばならないこともある。乗り越えねばならないものは何時もある。仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、それがおそらく幸福に至る正道である。そして行動が共有される時、…そこで初めて幸福は生き生きと輝くのである』『一言でいえば、サッカーであれ学問研究であれ、規律を認容し其れに遵うから幸福なのだ。そしてそういう義務は遠くから見る限り、面白くない。それどころか不愉快なものだ。幸福とは、報酬など全然もとめていなかった者のところに突然やって来る報酬である』と、アランが書いています。本当だと思う。一見面白くない聖書を何度も何度も読むこともそれに似ている。行間から深遠なる思考回路を理解できたような(錯覚かも知れないが)気持ちがする時、平安な気持ちに満たされていると感じて、なんと幸福な思いになることか。  

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伊豆高原の絶景とは・・・

2016年01月08日
吾にとりましての絶景とは…と考えてみますが、あまり旅行にも出かけたことが無く、広々したところや目も眩むような高い山にも登ったことがないので、これぞそれだ!と言えるものが想い浮かんできません。先日、友達と歩いていた時に土地の売り看板を見つけて、失礼ながらその土地の一番高い場所に上ってみました。なかなか素晴らしい眺めでありました。

その土地からの眺めです。海まで林が続いており、別荘の屋根が点在しているだけで、その向こうは蒼い大島が横たわっていました。大島全体が何も欠けることなく眺められる場所であることと、電線が視界の中に入ってこないのが素晴らしい。熱海や真鶴に負けていません。135号線よりも海側ですから、伊豆高原の山側のエリアに雪が降っても、ここは降らないと思われます。城ケ崎地区と同じで暖かいのです。敷地全体もかなり広く、一番高い所に家を建てて、敷地から続く大島を眺めたら、どのように感じるだろうか…と想像して見るだけでちょっと楽しくなりました。

『そもそも人間は誰でも最も完全に融和が出来るのは、自分自身を相手にした時だけである。友とも、恋人とも、完全な融和はできない。個性や気分の相違のために、必ず多少とも不調和が生じるからである。したがって心の根本的な真の平和と、気持ちの完全な平静、即ち健康の次に最も貴重なこの地上の財宝は、孤独のうちにのみ求める事が出来、持続的な気分としては、徹底的な隠遁の内にのみ、求める事が出来る』と、 ショーペンハウアー が書いています。時折自分が分らなくなるのは、孤独な時ではなく、周囲に様々な人々がいる時に強く感じるのはこの為であろうと思う。さればとて、あまり内向きでも人間らしくないと思うし、兼ね合いは難しい。
  

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小さくても揃えば壮観、伊豆高原‼

2016年01月07日
丈夫でほっておいても増えていく健気な花です。黄色や白や薄紫などもあったように思います。気象条件によって開いたり開かなかったりと、丈夫そうですが、デリケートなところもある点が面白く感じます。

オキザリスに似たような花はたくさんあるようです。調べていくと愉しいかもしれません。
それにしても伊豆高原ではもう寒桜が咲き出しました。今年は本当に暖かな冬で終わるのだろうか。

『もとより人生は本来、愉しむべきものでなく、克服し始末をつけるべきものなのである。・・・・・のみならず、一生の労苦を片付け終わったということが、高齢になってからは一つの慰めになる』と、 ショーペンハウアーは述べています。吾にとりましての労苦はなんだろうか考えました。現時点で言うなら、多分己の思考回路の再構築をすることであろうと考えている。最近特にそうなのだが、何が正しくて何がそうでないかという自身の判断にとんと自信がなくなっている。聖書の行間から神の思考回路を探し求めて読む日々であるが、聖書は解釈が難しい。と言って、虎の巻のようなものを読んでいたのでは己のものとすることは不可能であろう。自分で考える能力に甚だ欠けていることを痛切に感じている。 ショーペンハウアーの云う慰めを得るには時間が限られているものを・・・。
  

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伊豆高原の愛の形、もう一つ

2016年01月06日
葉っぱだけの段階では何色かは不明なのだと思いますが、蕾になってから植えるのでしょうか。ちゃんとハートの形になっています。


伊東もこの冬は暖かい日が続き、この種の花は暖かいと花が咲かなくなるのを知りました。会社の玄関の鉢植えのビオラが、いつのまにか緑の葉っぱだけになってしまい心配していましたが、やっとまたちらほら咲き出しました。植物にとりましても異常気象は忍耐が必要なようです。

今年はまた選挙の年であるとの報道がされていました。もとより興味はありませんから内容は知りません。どうして政治家なんぞになりたいのかが分かりません。『彼らのやることはなんて妙なのだろう。彼らは自分と時代を同じゅうし、生活を共にする人々を誉めようとしない。ところが彼ら自身は、自分が決して見たこともなく、これから先見ることもない後世の人々に誉められることを一大事と考えている。これではまるで君より前の時代にいた人たちまで、君について賞賛の言葉を言わなかったと言って嘆くのに近いのではないか』と、アウレーリウスが書いていました。現代の政治家もその手の類の人種で有るような気がしています。2世紀の彼の言葉にさえそのように表現されているのですから、それは、人間の持つ普遍的な思考傾向なのだろうか。自分自身ではなく、民を愛することを求めるのは難しいことなのだと感じている。  

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2016年 伊豆高原の愛 

2016年01月04日
前回のお正月の時期にもあったと思うが、今回も四季の花公園にはあちらこちらに愛がちりばめられていました。


花キャベツは特段珍しくも面白くもありませんが、集団で植えられているとなかなかの芸達者だと思わせます。一つ一つよく見てみると、キャベツとは言え侮れない生き生きとしたその葉っぱが、見るものに活力を与えてくれるほどに力強く感じられるます。食べられるのだろうか。三が日も穏やかに過ぎましたが、今朝はまた殊の外の暖かさで、日向では汗ばむほどの気温にたじろぎます。また、一年の始まりです。

哲学者の手に政治を委ねることが理想だとプラトーンが申したそうだが、人類の長い歴史上たった一度だけ斯様な人がいたそうな・・・それがマルクス アウレーリウス(古代ローマの皇帝の一人)。彼曰く『変化を恐れる者があるのか。しかし変化なくしてなにが生じえようぞ。宇宙の自然にとって之よりも愛すべく親しみ深いものが有ろうか。君自身だって、君が有る変化を経なかったならば、熱い湯に一つはいれるだろうか。若し食物が変化を経なかったならば、自分を養うことが出来るだろうか。そのほか必要な事柄のうち何が変化なしに果たされえようか、君自身の変化も同様なことで、宇宙の自然にとっても同様に必要であるのが分らないのか』。もとより変化に付いていくのが苦手である吾にとっては、すべてが目まぐるしく変化する世の中に適応することが益々できにくくなりつつあるように感じています。変化の二文字を見ただけで横を向きそうな偏屈さが有るのを自認している。しかし、このアウレーリウスの言葉が偏屈な心を揺さぶっています。変化することで心の中に何か得るものが有るだろうか…と考えています。  

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伊豆高原の2016年はもうやって来ています。

2015年12月29日
このところの好天で大島や利島と言った伊豆の島々は連日観光客の目を楽しませています。お正月休みが始まりますので、伊東の街も何となくいつもよりも車の交通量が多いような気がします。





初日の出見物の方々のために、例年菜の花の開花を併せてごらんにいれようと四季の花公園の造園方は心を砕いているのを見ておりました。一昨日どの程度開花しているのか見に行ってきました。未だお休みでもないでしょうに、かなりの人が来ていました。菜の花は満開でご覧のとおりでした。今年は寒さが本格的になっていない為か、菜の花も伸び伸びとしているように感じます。正面の大島の左裾のあたりから太陽が昇って来るのだそうです。天候に恵まれてくれると、来て下さった方々に喜んでいただけるのではないかと思い、天気予報が気になるところです。

『雑務か遊興に忙殺されて自分の過去を再検討することもなく過ごし、どちらかといえばただせわしなく生活を送っているだけの人には、はっきりとした思慮が失われている。そういう人の心情は混沌としたものになり、思想は云わば混乱してくる。そうなると、じきに話の仕方に脈絡がなく断片的で、まるでこま切れみたいになって、この混乱を丸出しにするようになる。外部的なせわしなさ即ち外部から与えられる印象の数が増してきて精神の内部的な活動が少なくなっていれば、右の混乱はそれだけ甚だしくなっているわけである。時が経って、我々に働きかけていた境遇や環境が過去のものとなった暁には、そのころの境遇や環境によって醸されていた気持ちや感情を呼び戻し蘇らせることが出来なくなっているものだという事を、ここに付言しておくべきだろう。とはいえ、この境遇や環境に動かされて述べた我々自身の言葉は、思い出すことができる。ところでこうした言葉は上の気持ちや感情の所産・表現・尺度なのである。だから記憶か紙に託して、記念すべき時々のそう言った言葉を注意深く保存しておくがよかろう。この目的には日記と言うものが大変有益である』とショーペンハウアー が述べています。暮れになって特に毎日忙しい日々が続いているため、このショーペンハウアーの言葉が心に沁みます。日記をつける習慣はありませんが、手帳に時折その時の気持ちを書いておくと、心の再検討をすることが出来るような気がしています。体力が失われていますので、せめて黙想による精神的活動に励んでいけるようにと念じつつ、第九に合わせて掃除をしようと考えています。黙想と言えるのかどうか疑わしい限りですが・・・。  

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伊豆高原城ヶ崎の冬の花は春の花

2015年12月28日
アネモネは地中海原産で一般的には春の花だそうだ。城ヶ崎は特別暖かいためか、今咲いています。




其れも日陰の寒いのではないかと思う場所でした。名前の由来はギリシャ語の「風」から採ったらしい。ギリシャの風はどのような風なのだろうかと思いを馳せました。ギリシャのイメージは樹木のない岩だらけの丘に建つパルテノンの神殿が浮かびますが、渇いた地中海の空気と暖かな日差しの中、吹く風はこの花弁の様に優しく儚そうなものなのだろうか・・・・。

『安心感を懐いて人生に立ち向かう人は、不安感を懐いて立ち向かう人よりも、格段に幸福である・・・・・仮に、あなたが狭い板の上を歩いて深い割れ目を渡っているとしたら、怖いと思わない場合よりも、怖いと思った場合の方が、ずっと落っこちる見込みが高い。同じことは、生き方につても当てはまる』とラッセル卿が書いています。マタイ6章27節には『あなた方のうちだれが、思い煩ったからと言って自分の寿命を1キュビト(45cmほど)を加えることが出来るでしょうか』と書かれています。あまり色々悩んだりしない方がいいのだということなのでしょう。吾にとりましては、バカの考え、休むに似たりは箴言かも知れません。  

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大島もこんなに近い伊豆高原

2015年12月26日
三原山にも雪が降るのを伊豆に来て知りました。椿の花ばかりに気が取られ、そんな寒さになるとはつゆ知りませんでしたから、ちょっとした衝撃だったと記憶しております。今日の大島は、このように暖かさを象徴しているように見えます。晴れて空気の澄んだ際には元町の建物がはっきり見えて、なんだか空を飛んで行けそうな気分になります。


椿祭りには多くの観光客が来島しますので、さぞ賑やかなことでしょう。熱海発伊東経由のセブンアイランド号が忙しく海上を駆けずり回る日が続くことでしょう。

『日常生活の中に幾たびとなく顕著に現れる凡くらな頭脳と利口な頭脳との特徴的な差異の一つは、凡くらな頭脳が起こりうべき危険を熟慮測定する際には、必ず、こういった種類の事で今までどんなことが起きたかということばかりを尋ね、それを考慮に入れるだけであるが、利口な頭脳は之に反して、どういうことの起きる可能性が有るかを熟慮し、その際スペインの諺に言うとおり、「一年以内に起きないことが数分以内に起きる」ということを深く考えてみるという点である。ここに取り上げたこの差異は、言うまでもなく当然なことである。けだしどういうことの起きる可能性が有るかを概観するには分別を必要とするが、現実にはどんなことが起きたかを概観するには感覚だけで事が済むからである』と、ショーペンハウアーが述べています。先を見通して判断するようなすばらしい能力が有れば、吾人生もずいぶん違ったものものとなったであったろうと、日頃思っておりますから、彼の言葉に下を向かざるを得ません。賢かったらな~とつくづく思います。深く考えるのにはメディテーションが必要だと本で読みました。朝早くか夜静かな時間となった時、星空でも眺めて・・・。最近は友がびっくりするほど早く休み、びっくりするほど長時間寝てしまうのですから、メデイテ-ションどころではないのが我現実です。  

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