日めくり Evangelical World 伊豆

伊東の海も暮れの忙しさ

2015年12月25日
遠目にもさぞ大きいのではないかと思われる作業船を小さな船が引っ張っていました。いつもベランダから眺めますからその大きさを正確に認識していなかったことを、海辺で見て分かりました。


暮れになると年度末同様に、陸上でも至る所道路工事の交互通行に出くわします。広い海の上ですから、それほどにも感じませんが、毎朝忙しげにタグボートに曳かれて出かける作業船も、結構かいがいしく感じさせます。みな無事に新しい年を迎えられるようにと祈ります。

『人間相互間の精神並びに心情の同質性と異質性とが対談中にたちまち現れてくる事は、驚くばかりである。どんな些細なことにもそれが感じられる。対談が縁もゆかりもない全くどうでもよいようなことに触れている場合でも本質的に異質的な人の間では、一方の人間の殆ど一言一句が多かれ少なかれ相手の好みに投ぜず、中には相手の気に障る言葉もあろう。これに反して同質的な人間はすぐ何事につけてもある種の一致を感じ、同質性が大であれば、この一致はやがて溶け合って完全な和声、いな斉唱となる』とショーペンハウアーが述べています。聖書の記述にもクリスチャンの一致と言うことに心砕いているのを感じます。しかし、現実にはなかなか一致した思いを持つことは、単なる事務的なことでさえも難しいと感じることが多々あることも事実です。一致することの素晴らしさは斉唱の美しい歌声の通り、心地好いものであるはずだと吾も思います。それを日々感じて過ごして行きたいものです。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:36Comments(0)

伊東小室山から見る亀石峠と富士山

2015年12月24日
見慣れた風景だが、いつみても心洗われる感じがします。昔々はこの峠を越えて中伊豆方面に行ったのか、はたまた冷川峠を越えて修善寺方面に行ったのでしょうか。さぞかし難儀であったことでしょう。今では車で、カーブや急坂を難なく超えていくことが出来るのですから、ありがたいことです。


今年は世界中で暖かい年末のようですが、富士山はやはり雪に覆われた方がより美しく感じます。地球上にはそれぞれの自慢したくなる風景が至る所にあると思います。そのような場所に行ってみたいと思いますが、あまりの自然の素晴らしさに、きっと自分の小ささをより感じてしまうことでしょうから、写真を見るだけに留めるのが無難と言うところでしょうか。

体調が悪く医者へ行った方は加齢によるとかストレス性のとか言われて、ビタミン剤をもらって終わることもあるのではないかと日頃思っています。『憂鬱は正真正銘の病気なのだ。医者がその原因を探り当て、直すことも時にはあるが、この治療そのものが注意を身体に引き戻し、言いつけを守って養生しようと気を使うことによって、その効き目も薄れる。だから賢明な医者なら、哲学者のところへ行かせる。しかし、哲学者のところへ行って、何を見つけるだろうか。読みすぎの人間、近視眼的な思考をする人間、つまり自分よりももっと憂鬱な人間である。国は医科大学と同じように、生きる知恵を教える学校を開校すべきであろう。どうやって教えるのか。本当の学問によって、すなわち事物、自然の観想と、宇宙と同じ広さを持つ深い詩情を教える事によって。人間の眼は遥かな水平線を眺める時、安らぎを得るようにできている。其のことは我々に大いなる真理を教えているのだ』と、アランは書いています。海と空、山と空そして夜の星空・・伊東の恵まれた自然が吾にとりましては、アランの申す通りであることを認識しています。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:07Comments(0)地域情報

伊東の暮れの花の色

2015年12月23日
特段珍しいものではありませんが、この季節になるとあちらこちらで咲いている山茶花。植物は咲く季節が定まっていると思うのですが、今年ゴールデンウィークから8月まで咲いていた蘭の花が、年末に来てまた咲き出しました。欄の花は季節に関わりなく、気の向いたときに咲くのだろうか…と少々戸惑っています。


『何事にも定められた時が有る。天の下のすべての事には時が有る』と伝道の書に書かれています。本当にこのまま開花してしまうのだろうかと、毎日眺めていますが、この花はとても気難しくて、あまり気にして見ているとそのまま枯れてしまうこともあります。人間同様、花もこれが個性と言うものなのだろうか。いちいち難しいものだと感じます。

ショーペンハウアーからまた面白い言葉を見つけました。『人間は自分の目から見れば、それぞれ自分だけが重要性を、いや比類なさを持っているが、世間の雑踏の中ではこの重要性、この比類なさが、何かの行動をするたびに無残にも否認され、跡形ないまでに狭められてしまうのだから、環境がこの重要性、この比類なさに合致するのは、孤独の場合しかないということを考えてみただけでも仮に必要も退屈もないとしたら、各自が独りひとりのままになっているであろう』とありました。子供のころから集団が苦手で、現在でもそれは変わっていない吾にとりましては、よく理解できる言葉です。しかし、世に交わって生きる毎日であるから、吾には重要性も比類なさも有りませんが、そんな風に生きられないことも事実です。
  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:07Comments(0)

伊東の海の遙か彼方の不思議な船

2015年12月21日
横浜方面に巨大な船が、何日か前から見えていました。望遠レンズで見てみると大きなクレーンを積んでいるようでした。伊東の海に停泊している海洋調査船もかなりの大きさですが、それが足元にも及びません。一晩中電飾を点け、これでもかと謂わんばかりに輝いていました。作業船なのでしょうが、何の作業なのだろうか。そして、朝になって、いつのまにか作業船は消えていました。もっと大きな望遠鏡が欲しいような気がします。

船が消えてしまった後には新井の山の向こうに太陽が昇って来たのを空が知らせていました。

『十分な活力と熱意のある人は、不幸に見舞われる毎に、人生と世界に対する新しい興味を見出すことによって、あらゆる不幸を乗り越えていくだろう。其の興味は、一つの不幸のために致命的になるほど制限されることは決してないのだ。一つの不幸いや数度の不幸によってさえ敗北してしまうのは、感受性に富む証として称賛されるべきことではなくて、活力のなさとして遺憾とされるべきことである』とラッセル卿が書いています。こんなことは今まで考えたことはない。確かに長く生きているうちには、打ちのめされるような境遇に至ることは多々あったと思う。その時、吾は如何様に対処してきたのか…と考えると、ただ時間の経過に己を委ねてきただけだったと思う。体力が落ちるにつれて、思考も活力を失ってくるのを感じるこの頃であるから、今日のラッセル卿の言葉に吾はショックを受けている。『死はいつ何時私たちの愛する人を打倒すかもしれない。だから、人生の意義と目的をそっくり偶然の手に委ねるといった、そんな狭い激しさを私たちの人生に与えるべきではない』とも書かれていました。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:16Comments(0)

電線が恨めしい伊豆からの富士山

2015年12月19日
家はいつの間にか老朽化しますが、土地は大概失われることはありません。伊豆半島の東海岸線から富士山が見える場所と言うのはあまり多くはありません。熱海は本当に少なく、伊東も限られた場所だけです。


朝から、本当に雲一つない冬の青空が広がっていましたので、富士山の見える物件へ行ってみました。晴れた時とそうでないときでは同じ物件でもまるで違うように感じます。雪を頂いた美しい富士山。このような土地には二つと同じものはありませんから、本当にプライスレスであろうと同僚と話しました。惜しむらくは、電線が無ければよいのですが・・・。

『精神的な戦いに於いて、我々は決して中立に留まってはならない。しかし、敵に対して好意を寄せ、理解を持つことは、殆んどいつでも為し得ることである。神と密接な個人関係にあるという確信が有れば、間違いなく、他人に対しては思いやりを持ち、しかし彼らの判断に対しては平気になれる。神と完全に友となった人にとっては、それ以後の人生に於いて、もはや幸福な出来事しか起こらない』とヒルティが書いています。分かるような気がするのです、幽かにですが。其の入口で右往左往している自分をも分かるのですが、どうやってそれを心の中に沁みこませるかが課題です。聖書に書かれた言葉を理解することと、世での生活の中の自分を御する仕方をスムーズに結ぶためにはまだ時間がかかりそうだ。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:11Comments(0)不動産情報

海の見える場所を探して・・伊豆高原

2015年12月18日
都会人には海の見える別荘を所有するのは憧れと言えるでしょう。人生の穏やかな一時を、海や山の美しさに心を委ねたいと誰しもが思うものです。昨日は、そんな方のご要望をかなえるべく、伊豆高原10か所の海の見える土地を探しに出かけました。「海遠望」と書かれていましても、その見え方は様々です。実際に行ってこの目で見てみないと良し悪しは分かりません。お客様にご覧いただく前に、己が目で見ておかねばなりません。


探しているうちに、伊東の芸術家の筆頭である重岡先生のアトリエの前に出ました。思わずお断りもしないで写真を撮っておりますと、先生と秘書の方が出てこられました。勝手に撮ったことを詫びると、お二人ともにこにこしておられました。芸術もやはり、環境の良い美しい自然に囲まれたところで生まれるのであろうと再認識いたしました。そしてお薦めの土地も見つかりました。

ラッセル卿がこのように書いています。食べてゆくためにガムシャラに働くことで疲れを招いているような人達の場合を『疲れは大部分、心配から来ている。そして、心配は、より良い人生観を持ち、精神的な訓練をもう少しやることで避けることが出来る。これはどういうことかと言えば、ある心配事について何も打つべき手がない場合にも、そのことをあれこれ考えるのをやめることが出来ない、ということだ。・・・・賢い人が心配ごとについて考えるのは、考えることが何か役に立つ場合に限られる。それ以外の時は、ほかのことを考えるか、それとも、夜分であれば全然何事も考えない。・・・・普通の日の普通の悩み事ならば、その始末をつけなければならない時は別として、締め出すことは全く可能である。きちんとした精神を養うことで、どれほど幸福と効率がいや増すかは、驚くほどである』とあります。マタイ6章34節には『それで、次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日はには次の日の思い煩いが有るのです。一日の悪いことはその日だけで十分です』とのイエスの言葉が記されています。吾のように、明日生きているかどうかわからないから思い煩うことはないという意味ではないようです。  

Posted by 東和開発株式会社 at 09:49Comments(0)地域情報

伊東、大室山の年末

2015年12月17日
いつもなだらかな稜線は見るものに穏やかさを与えてくれる大室山、初冬の入り口の暖かな日に山肌に空の雲の影を映していました。


山焼きの折の燃え盛る炎は一時の激情を表していますが、秋のススキの季節には風を穂にうけて靡く稲取のススキに負けない饒舌さを感じさせます。リフトで頂上に上るのも、これからは空気が澄んできますから、遠くの房総半島や富士山を眺めやれることでしょう。噂によると、スカイツリーも見えるとか・・・。

『愛は、他のいかなるものにもまして、人を賢明にする。ただ愛のみが良く、人々の本質と事物の実相とについての洞察を、また人々を助けるためのもっとも正しい道と手段についての本当の透徹した洞察力を与えてくれる。だから我々は、あの事この事について、何がもっとも賢い処置であるかを問う代わりに、何が最も愛の深い仕方であるかを問う方が、大抵の場合、確かに良策である。というのは、後者の方が前者よりもはるかに分かり易いからである。何が愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしない限り、そうたやすく錯覚に陥る事はない。ところが、もっとも才能豊かな人でも、ただ賢さだけでは将来のあらゆる出来事を正しく予見し、判断することはできない』と ヒルティは述べています。 他の人に愛を示すことの難しさは日頃悩むところです。溢れすぎず、足りな過ぎずを考えながら行動せねばならないことだけはわかるのですが・・・。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:19Comments(0)地域情報

師走なのに暖かな伊東の朝

2015年12月16日
週末は寒くなるとの予報らしいが、昨日も今日もとても12月とは思えない暖かさです。エルニーニョが観測史上最大であるための影響でしょうか。


冬の朝らしくなく、春の様にかすんでいました。大きな軍艦が停泊しているいつもの伊東の海です。もう今年も残り半月です。伊東の街は師走を感じさせない静かさですが、これで今月末になれば、沢山の温泉客が来て少しは街らしい雰囲気になるのかもしれません。誰か素晴らしいアイディアの持ち主が現れて、我伊東のシャッター商店街が賑やかになればいいなと念じつつ・・・。先般のあかつき2号のスイングバイは成功したと報じられています。軌道修正するのに、エンジンを使わずに、地球の引力を利用して行ったそうだが、どのようなことでも頭を使って何かできないだろうかと思います。宇宙の事ではないのだから、目に見える商店街のことなのだから…と考えますが、吾にとりましても良いアイディアは浮かんできません。

『時を待たずに先回りするということは、時の生ずる結果を予見することによってのみ理論的に為すべきであって、実践的にこれを為すべきではない。すなわち、時の経過によってはじめて得られるものを、時を待たずに要求し、時を待たずに手を着けるというようなやり方をすべきではない。こういうやり方をするものは、時ほど隙のない悪辣な高利貸しはないということ、時は前貸しを迫られるとどんなユダヤ人よりも厳しい利息を取り立てるものだという事を思い知らされるであろう・・・・・。規則正しく経過するときの歩みを早めようとするのは、もっとも高価な企てである。だから時に対して利息を支払わねばならない立場には立たないように自重するがよい』とショーペンハウアーが書いています。わが人生の先輩は『待つということは辛いことだが、とても大切なことでもある』と述懐していたものだった。すべてをありのままに見て、受け入れて生きることの大切さも感じさせます。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:21Comments(0)

伊東の師走は千両か万両か・・・

2015年12月14日
お正月の彩としてこの植物は好きであったが、どれが千両で万両なのかと思いnetで見てみると、なんだか調べなければよかったような気分になりました。


万両は赤い実が下向きに付くので、重いほどのお金というイメージからそう呼び、千両は上向きにつくので万より少ない千なのだそうだ。「金のなる木」と言う植物をよく玄関先に置いてあるのを見かけると、いつもなんとなく敬遠してしまうのと同じ気分です。もっと違う呼び名がないだろうか…と思いますが、昔からそう呼んでいるのですから仕方のないことなのでしょう。

皮肉屋の ショーペンハウアー 曰く、『総じて、自己の一生に対して万端の準備を整えるということは、それがどういったことであっても、最もよく見られる最大の愚行の一つである。こういった準備をするときには、何よりまず一人前の完全な一生涯と言うことが予定されている。…・・・さらに、計画は人間の全ての営みの常として、失敗の危険や障害に曝されることが多いから、目標達成をすることが滅多にない。最後に、結局すべてが達せられた場合でも、時の経過が我々自身に加える変化が度外視され計算外に置かれていたわけだ。即ちその成果を立派に維持していく上からも、またそれを享楽する上からも、我々の能力が生涯を通じて変わることなく持ちこたえられるものでないという点が十分に考慮されていなかったわけだ』と書かれていました。彼の様な賢い人がそうなら、吾が何時も計画倒れであることは当然の帰結であろうと妙に納得しました。今朝、柔軟体操をしながら、今まで出来たことが既に出来なくなっていることに気づき、少々落胆しました。いつまでも昨日と同じであろうとか、己が身である故に何時でも思いのまま動かすことが出来るなどと考えるのは、何の根拠もないのだと、改めて気づかされた。人生は思い通りには決して行かないということ知っていながら、常日頃は忘れているような気がします。  

Posted by 東和開発株式会社 at 12:01Comments(0)

伊東松川のハンティング2015

2015年12月12日
武者震いの後に目にも留まらぬ速さで首を水の中に突っ込んだアオサギ君、口に小さな蟹を銜えておりました。




どのような味がするのでしょうか。蛸は高価な伊勢海老が好物と聞きます。美食家と言う訳でないでしょうに。動物の頭が下がる点は、必要以上なものを獲らないという点でしょう。人間は彼らより遥かに貪欲な生き物のようだ。

自分自身が救いがたい不幸にあると思う事に対して、アランはどうしてなのかという疑問に『我々は誰も、自分が自分らしくない狂気に囚われていたことを知っているから。一年もたてばそのことを心から笑い飛ばすであろう。そこから僕が推論するのは、涙の衝動や胃や心臓やおなかや激しい身振りや筋肉の不必要な収縮が推論に入って来るや否や、我々は情念によって騙されてしまうことだ。単純な人は何度でもそれに引っかかる。でも僕は、このまやかしの光がやがて消え去る事を知っている。僕としては即座に消したいのだ。僕にはそれが出来る。大げさに言わなければよいのだ』と書いている。そして『本当の人間らしい思考はいつも、何らかの仕方で人間の自然な状況に、そしてまた事物の自然な流れに符号しているはずだ・・・・・軽率にそのような不平不満に入り込んではならないという十分に強い理由となっている。不平不満が怒りをはぐくみ、逆にまた怒りも不平不満をはぐくむ事になるからだ。地獄の中のぐるぐる回りだ。だが、悪魔であるのは自分自身であり、フォークを持っているのも私なのだ』と続いていました。言葉にしないというのは表に現れる現象に過ぎず、心の中でもそう感じないようにするには全く吾は凡庸すぎる。我心の変革は時が過ぎるのを指を銜えて見ているだけかも知れない。  

Posted by 東和開発株式会社 at 10:30Comments(0)動物