日めくり Evangelical World 伊豆

伊豆高原、城ヶ崎の黄門さん!

2015年05月30日
長く放送されているあの水戸黄門の印であるアオイ。野生のものだそうだ。友の自慢の宝だと云いつつ、庭の隅の方へ連れて行かれて見せてもらった。


花屋さんで売っているものではないのは貴重なのだろう。知人で、「お名前はどう書きますか?」と尋ねられると、「水戸光圀」の「圀」と書きますと必ず言う人がいる。言われた方も年寄りならいざ知らず、若い人では一瞬困惑の表情になるのが見ていて愉快です。名前は一生使うものですから、なるべく読みやすい簡単なものの方が良いと、常々吾も感じています。黄門さん自体、知らない人も多くなっているのでしょうから。

『人間のむなしさを十分に知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。原因は「私にはわからない何か」であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることが出来ないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。其れがもっと短かったら、大地の全表面は変わっていただろう』とパスカルが書いていました。面白い‼どうしてそうなのかは皆目わかりませんが、世の男性諸君が奥方を異常に怖がることと共通しているのだろうと吾は勘ぐりました。其れは何かは面倒なので考えるのはやめます。  

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ベビィーピンクももうすぐ終わる5月のバラの季節

2015年05月29日
5月はバラの花で息が詰まりそうになるほどの咲きように、自分のものでなくとも何やらとても幸せな気分になれます。このピンクの美しさもその一つです。




通年咲くバラもありますが、伊豆に住んでからすっかり5月のバラの季節が楽しみとなりました。バラが咲くころにはすべての花が陽の光を賛美するように咲きます。伊豆高原の別荘地も花で埋まってしまいます。もう訪れる機会も少なくなってしまったように思える別荘の静かな庭も、花達がひっそりと咲いています。何もかもが生きていることを人に知らせようとしているようにも思われます。

ソローの言葉だそうだ。『我々の生涯における様々なエポックは我々が気付くところの、我々自身の意志で行った行為、すなわち結婚、就職等々によって決定されず、例えば散歩しているときとか、夜中とか、食事時とかに浮かんでくる思想によって決定されるものであるが、ことに過去全体を総括して、我々に向かって、お前はあんな行動をとってきたが、もっと違った行動を取った方が良かったのだ、と告げる思想によって決定されるものである。その場合、その後の我々の一切の行動は奴隷のようにそれらの思想に奉仕し、その意思を遂行するものである』とある。大上段に振りかぶらなくても、日々反省していればよいのであろうか。反省が無ければ進歩もないのは分かる。人生も自動車の運転も同じようなものなのか。但し、反省するためには変わることない確固としたものに照らしてみる必要があると思う。  

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伊東街中の我友ウグイス君

2015年05月28日
週初めに「しょうなん」がやって来た、その夕方今度は掃海母艦「みうら」が堂々たる巨体を海に横たえていました。写真を撮っているときに、とても近くでウグイスが啼いていました。


声のする方へ目を凝らしてみると、屋上のテレビアンテナに止まって意気軒昂と言うところでした。ウグイスは声はすれども姿は見えずの典型の鳥と言われているので感激でした。伊豆高原では電線に止まって啼いているのを一度見たことが有ります。翌日、出勤しようと駐車場に行きますと、昨日のウグイスかもしれませんが、またアンテナに止まって大声で呼ばわっていました。元気です。小さな体を震わせ、全身全霊を込めて囀る姿を眺めながら、こんな小さな鳥でさえ一生懸命なのだから、人間の吾はもう少し生きる努力が必要なのではないだろうかと考えさせられました。爽やかな思いで一日を始めることが出来たことを感謝せねばなりません。

カントの言葉だそうだ。『もし人々が、それを試金石として個々の行為の道徳的内容を調べるべき純粋道徳性とはそもそも何か?と尋ねたら、私はただ、哲学者たちだけがこの問題の解決をあやふやにしてる、と答えなければならない。何となれば健全な人間的常識にとってこの問題は、確かに抽象的・一般的議論によってではなくとも、我々が行われた行為の善悪を、右手と左手を判別するように正確に判別するという事実によって、もうとっくの昔に解決済みだからである』と。良いのか悪いのかはっきりしないと考えさせられる様々な意見が罷り通る今のご時世に、時々疲れを感じることはないだろうか。其れこそず~っと昔から是は是、非は非であるものを・・・・。  

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ブルーカラーの働く歓び:伊豆高原

2015年05月27日
いまどきはブルーカラーなどと言う言葉は死語だろうか。世から離れてだいぶ経ちますから、こんな風な色分けを現在でもしているのかどうか不明です。伊豆高原ではハチが呻りながら懸命に働いていました。冬場でも見かけますが、さすがこの暑さにフル回転と言うところです。


体中花粉にまみれ、真っ黄色になりながら蜜を集めているようです。蜂蜜を買う時いつも心の中で笑ってしまいます。アカシア蜂蜜とかオレンジ蜂蜜とかラベルに表示されているが、本当にそれだけを集めてきているのだろうか。ハチに聞いてみたいと思うのだ。人間は本当に勝手だな~とも思う。まぁ、もともと折角集めてきたものを、お断りもなく頂戴しているのですから、勝手は最初からということではあるけれど。

ジョン ラスキンの言葉だそうだ。『人間の仕事に伴う決定的な条件の一つは、努力目標が遠ければ遠いほど、そしてまた自分の仕事の結果を見たがる気持ちが少なければ少ないほど、仕事の成功度は大きく且つ広いということである』と。トルストイも『人間の仕事のうちで、自分にとっても他人にとっても一番大事で一番必要なものは、当人がその結果を見ないで終わるような仕事である』と書いています。…これから言うと、ハチさんの仕事も大したことをしていると言えるのかもしれない。

  

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伊豆高原のお行儀

2015年05月25日
ハナミズキかと思うが、色合いと花弁の様子が違うような気もする。ヤマボウシの類かも知れないが・・・。




花弁の色はあまりきれいとは言えないのでまず目を惹きました。しかし、よく見ると葉っぱの形がユーモラスです。まるで膝の前で両手を重ねてご挨拶をしているイメージです。「女は愛嬌とご挨拶」が出来れば、万事人生順風満帆が口癖の友がおります。言うだけあって確かに彼女のお辞儀は大したもので、病院で診察を終えて辞去する際の医師に対する挨拶の仕方で、次の診察の際には必ず医師や看護師たちの良き態度を期待できると教えられました。確かにファーストインプレッションとしての挨拶は有効かも知れません。

『人間の偉大さは、その惨めさからさえ引き出されるほどに明白である。何故なら我々は獣においては自然なことを、人間に於いては惨めさと呼ぶからである。そこで、我々は人間の本性が今日では獣のそれと似ている以上、人間はかつては彼にとっても固有なものであったもっと善い本性から、堕ちたのであるということを認めるのである。何故なら、位を奪われた王でない限り、誰がいったい王でないことを不幸だと思うだろう。・・・・何故なら、彼の身分は常に王であることだったので、彼が(マケドニアの王ペルセウスを指している)おめおめと生きているのを不思議に思ったくらいだからである。自分に口が一つしかないからと言って、だれが不幸だと思うだろう。そして、目が一つしかないことを、だれが不幸と思わないでいられようか。目が三つ無いと言って悲しむ気になった人は、恐らく今までにないだろうが、自分に目が一つもなかったら、なんとしても慰められることはないだろう』とパスカルが述べています。面白い論法だと思うが、人が生まれながらにして罪を負っていると考えるキリスト教の教理を理解するには良い文章だと思う。  

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やってくる梅雨の季節か、伊豆高原

2015年05月23日
野生のアジサイとのことですが、アジサイそのものが日本原産と言いますから嬉しいような気がします。もうあちらこちらで咲き出しています。四季の花公園ではアジサイの特別なエリアが有りますから、一度見てみるのも良いかもしれません。


日向では暑く感じますが、昨日も今日も風はなんだか冷たく感じます。昨夕方、空を見上げると虹ではないが、彩雲と呼ばれるものでもないような現象が見られました。昨日午前中には東海から関東地方にかけてずっと大きなこのようなものが、大空いっぱいに見えたと報じられていました。


箱根山はどうなっているのでしょうか。地震の前触れは雲に出ると昔から言われていますが、これが結構当たるのだそうだ。真剣に地震予知を日夜研究しているアマチュアさん達がその様に語っていました。其れで、時々空を見上げています。

昨日のエスマンの続きです。彼曰く『世間に在っては世論に従って生き、独居して初めて自分の考えによって生きる、というのはたやすい。群衆のただ中にあって、独居の時と同じような温和さと独自性とを保持する人のみが、強者である』と。其れは真実であると思う。自身の事に照らせばその通りであることがわかる。独りいるだけでは自分の本当の姿は分からない。庵を結んで厭世しているだけでは、実際的な己の改革には程遠いと実感しています。反省の日々です。  

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海軍さんのハイテクブレイン、 伊東港に来る!

2015年05月22日
最近視力が弱くなったようで、軍艦の番号が良く見えません。形から推して今まで見たことのないような感じでした。写真を撮ってみてやっぱりと。


『しょうなん』という名前です。なんだか湘南ボーイなどという古めかしい言葉をイメージさせるかもしれませんが、この軍艦は見かけより中身が凄いのかもしれません。海底の地形、地質、磁気の雑音の調査などの自然環境のデータ化が任務だそうです。昨日桜島が大噴火したと報じられていましたが、伊東には吾らが手石海丘なるものもあります。斯様な軍艦に調査して貰えば、少しは安心ということです。


今朝7時には元気よくラッパを鳴らし出航していきました。

凄い‼と笑ってしまった文章を。『現代の人々は、まず何をおいても自分自身の中の人間を尊重すべきだということを忘れている。人間の最高の特質は、彼が精神的安定状態にある時、その意識が理性の源泉と交流して、無限の霊的生命と融合し得る点にある。しかるに人々は、この源泉から直接霊の糧を汲もうとせず、互いに乞食のように柄杓一杯の澱んだ水を乞い求め合う始末である』と、エスマンが述べたと書かれていました。読めば誰もがちょっとびっくりするだろうと笑いました。水がいつも澱んだ状態であれば、それが濁っているとは気が付かないだろうと思いますが、手厳しい表現だと感じました。エスマンさんは実際どんな人だったのかと興味がわいてきました。  

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見方を変えれば豚の耳:伊豆高原

2015年05月21日
豚の耳はこの花の名前だそうです。南アフリカ原産と言うことで、とても素朴な呼び方ではあります。でも、やっぱりちょっと花が可哀想です。
花弁は真ん中にある黄色い棒状のものだというのですから、花と言っても様々です。名前はカラ―と言い、由来は一説には修道女が頭に被っている帽子のような御高祖頭巾のようなあれなのだということですが、豚の耳とは大違いです。ま、どちらでも構わないでしょうけれど、花も後ろから見てみるとまた違った不思議さが有ります。デザイナーの才覚がしのばれます。

今日も良い言葉を見つけた。『この世における我々の立場は、丁度、学者が自分の学問について話している部屋へ入っていった子供のようなものである。子供はその話の始めを聞かず、また終わりを待たずに、部屋を出る。彼は話の中のあれこれを聴くには聞くが、それを理解しない。神の偉大なる言葉は、我々が学び始めるずっとずっとっ昔から始まっており、我々が骨になってしまっても続くであろう。我々はその言葉のほんの一部を聞き、しかもその大部分を理解することが出来ない。しかしながら、たとえほんの少しではあっても、またごくぼんやりではあっても、とにかく我々は何か偉大なもの、尊厳なものを理解するのである』。デーヴィッド トーマスと言う方の言葉だそうだ。2000頁にわたる聖書を学校を卒業してつい最近までかかって読み通したと友が伝えてきました。彼女は全部を理解したのだろうか…無理だろうなと思う。聖書は最後まで残った知りたいと吾が思うただ一つのものだ。吾が理解したことだけでも、それを知らない人に伝えたいと思うが、肝心のその人たちは知りたくないのだということもよく分かっている。  

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もの多く言わねど美しい伊豆のバラ

2015年05月20日
まだドイツが東西に分かれていたころだったと記憶している。美しいフィギアの選手が居ました。カタリナ ビットという方でした。バラに例えるなら真紅の大輪のようなイメージでしたけれど、吾ら真央ちゃんは丁度このバラの花のようにあっさりとした爽やかなイメージを抱かせます。現役に復帰できたらと言う記者会見をチラッと見ました。


いったん途切れた気持ちを元に戻すエネルギーは如何程のものであろうかと想像するが・・凡人の吾にはわかりません。大変であろうとは思いますが。羽生選手と真央ちゃんが頑張っている間は、吾もフィギアを楽しんでいたいと思います。其れにつけても日本スケート協会の理事さん達には、選手を大事にしてもらいたい、名誉職であることをよく考え、努々己が利益を追求するようなことの無いようにと願います。営利団体ではないのですから。

今日はパスカルのこの言葉が心にしみた。『人々は宗教を軽蔑している。其れを憎み、それが真実であるのを恐れている。これをなおすためには、まず宗教が理性に反するものでないことを示さなければならない。尊ぶべきものとして、それに対する尊敬の念を起させなければならない。次に、それを愛すべきものとなし、善い人たちにそれが真実であることを願わせ、そのあとで、それが真実であることを示すのである。敬うべきと言うのは、それが人間をよく知っているからである。愛すべきと言うのは、それが真の幸福を約束するからである』とありました。人間をよく知っているとは、人間を創造されたのは神であるというところから始まるからなのだと思います。
  

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伊豆高原は何れアヤメか杜若!

2015年05月19日
だいぶ前から小さな可憐なアヤメが咲いています。どれがアヤメでどれが杜若かを知るのは…と調べてみましたら、花弁の根元を見るのだと書かれていました。


アヤメは花弁の根元に網目状の模様が有るのだとのこと。この写真は故にアヤメでしょう。アヤメを漢字で書くと「菖蒲」と書きます。でも本当の菖蒲とは厳密にいうと違うのです。菖蒲は花弁の根元に黄色の目の形をした模様で、杜若は白い目の形をしているそうです。今度、見るチャンスが有ったら是非心して見てみたいと思います。今日は朝から曇天です。時折小雨も降っています。それでも燕のお父さんは元気に飛び回ったり、巣の警護をしたりと大活躍です。お母さんツバメは10日後程に迫った雛の孵る日を待ちつつ巣の中で卵を温めているということです。楽しみです。

聖書は単に読んだだけでは理解できないことが多々ある。吾の癖であるのだが、この理解は果たして根拠となる聖句が有るのだろうか・・と考えるのです。トルストイが『疑ってみることは信仰を破壊するものでなく、かえって之を強固にするものである』と書いています。また続けて『私は、神と我々との間に越えがたい一線を画そうとするものではない。意志の決定は、疑いもなく我々のものだけど、自由な思想や感情の世界では、神の存在を認めざるを得ない。我々のうちに最も奥深く存在するものは、みな神の反映にほかならない』とある。ヤコブ4章8節には『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいて下さいます・・・』とありますから、知る努力を厭いてはならないということでしょう。マルチノという方が、『不信仰と言うのは、人が何かを信ずるか信じないかと言う問題ではなく、その人が自分の信じていないものを信じているということである』と書いたそうな。  

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