日めくり Evangelical World 伊豆

ストロベリーチョコレートは何時なりや、伊豆高原

2014年10月31日
昨年はチョコレートコスモス畑が広がって見事な花を咲かせておりましたので、今年も同様かと思い出掛けてみましたが、連続してやってきた台風ですっかり見る影がありませんでした。海の傍ですから風も強かったのかも知れません。可哀相なことをしました。因みに入場料はいつもより百円安かった。




それでも咲いている花に、最後のエネルギーを絞って蜜を集めているシジミチョウが頑張っている姿に「ガンバレ‼」と心の声をかけておきました。大正時代にメキシコ原産と言うこの花が日本にやってきたのだそうですが、つい最近まで知りませんでした。また、チョコレートコスモスとキバナコスモスの掛け合わせでストロベリーチョコレートなる花が出来たとのことですが、まだ目にしていません。そのうち伊豆高原のどこかで見られることでしょう。楽しみです。

ソクラテスの言葉だそうです。『日々より良き人間になろうと精進する生き方よりも良い生き方は無く、実際に自分がより良き人間になりつつあることを感ずることよりも大きな喜びはない、と私は思う。これこそ私が今日まで絶えず味わってきた幸福であり、私の良心が私に向かって、これこそ真正の幸福であると語っている』。ソクラテスのような方ですから、そのような幸福を味わうことが出来たのでしょうが、吾のような凡人には願っても得られようもない幸福感であると思います。より良い人間になることを密かに切望は致しますが、日々難しく感じています。『絶えず味わってきた』と述べることのできるソクラテスは、実際にはどのような人であったのだろうと・・・タイムトンネルが有るのなら彼の時代へ、ギリシャ、アテネのアレオパゴスの丘に行ってみたいと思います。   

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紫色にご用心 伊豆高原

2014年10月30日
赤い実は多いが紫色は少ない・・と言われますが、そういえばそうだと思います。秋深くなってくる真っ赤で美味しそうな実が沢山なった木を見かけることが多くなります。


ムラサキシキブかと思いましたが、コムラサキと呼ばれるものかも知れません。茶花に合うように思います。沢山実がついているものよりは控えめなのが何も飾らない質素な茶室に合いそうです。シンプルであることは美しいと思います。




同じ紫でもこちらは形から申しましても怖ろしげな「トリカブト」です。英名ではmonk'shood…「お坊さんの帽子」と表現すると申しますから、だれもが美しいだけではない、ただ者ではないという雰囲気を感じるのかもしれません。蕊がどんなふうになっているのか持ち上げて写真を撮り、あとで何の花か訊きトリカブトであることを知って触れたが大丈夫かと少々心配でした。トリカブトも種類は日本に自生しているものが30種あり、白や黄色、ピンクがあるとか。芽吹くころは他の植物に似ている点と、猛毒ですが種類によっては反って心臓が丈夫になるケースもあるとのことですから、注意が必要だと友が申していました。何のための注意かよくわかりませんが。

『もし人がその理性を、世界はなぜ存在し、自分はなぜこの世に生きているのか?と言う問題を解くために使ったら、彼は一種の嘔吐感、一種の眩暈に襲われるであろう。・・・・理性はただ“如何に生くべきか?”と言う問題を解くだけである』とレフ トルストイが述べています。存在の何故といかに生きるべきかという二つとも吾は知りたいと思う。欲張っているだろうか。




  

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伊豆高原の小さな世界

2014年10月29日
消え入りそうな状態でも小さな花をつけているこの花は「大文字草」と言います。花弁の長短が丁度、漢字の「大」と言う字に見えるからなのだそうです。自生しているものは白い色で、園芸品種はピンク色とのこと。




長い花びらの方でも1.5センチに満たないほどの小ささですが、元気に所々で咲いています。秋の初めから晩秋まで咲き続けます。その近くにやはり小ささも同じような「スナゴケ」が朝露をいっぱいに浴びて元気です。


肥料も土も不要ながら、CO₂を逃がさないので、研究対象となっているようです。根が無く、光と水だけで無機質の基盤上で育つと書かれていましたから、今度育ててみようかと思います。部屋の中に於いて眺めるのなら、土が不要と言うことは有り難く思います。土に付いてくる虫がちょっと苦手な方にも良いかもしれません。

ソローと言う方の言葉だそうな。『もしもある人に、その人が悪い生活をしていることを納得させたかったら、自分が善い生活をしてみせるが良い。言葉で説得しようとしてはいけない。人々は実際眼で見るものの方を信ずるものである』。言葉では色々と言えますが、実際にそのようにすることは難しいといつも感じています。努力すればできるというわけでもなさそうな気もしますが、気持ちだけでも失わないようにと考えます。ルカの書に『あなた自身が自分のその眼の中に垂木を見ていないのにどうして兄弟に、『兄弟、あなたの目の中にある藁を抜き取らせてください』と言えるのですか。偽善者よ!まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば、兄弟の目の中にある藁をどうしたら抜き取れるかはっきりわかるでしょう」と書かれています。耳が痛い良い教訓です。  

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冬のカウントダウン、伊東の海

2014年10月27日
10月15日はここから日が昇りました。


今朝は新井の山陰にもう少しと言う場所からの日の出でした。冬が到来します。


春が訪れるまで太陽が水平線から昇る光景は目にできません。美しい朝の空と海の表情がしばらく望めないのは淋しく感じます。自然が心を慰めるものであることをこの崖の上の部屋に住んで初めて気づきました。何十年か後にもこの海の優しさがそのままであろうことを願う気持ちでいっぱいです。いつもそこにあったにもかかわらず、気づかずに過ぎて行った時間が少々惜しくも感じます。都会は都会なりにきっと自然があったろうに、それを見る心がありませんでした。

ヨセフ マッジニの言葉と書かれていました。『全能の神の言葉は述べつくされていないし、その意思はまだすっかりは啓示されていない。神は人間の頭脳では捕捉できないほどの永劫無限の時間を通して創造しつつあるし、この後も創造するであろう。過去はただ、彼の創造のほんの一部を我々に示しているだけである。我々の仕事に終わりと言うものはない。我々はその源をほとんど知らないし、その最終的目的など全然わからない。時間や知識や様々の啓示は、その限界を広げるにすぎない。世紀を重ねるにつれて、我々がほんのその一部しか理解できない自分の法則を模索しつつ、我々に知られない運命の高みへ登って行くのである』と。創造主の一日は人間の1000日にもあたると聖書には書いてあります。人間の知っていることなど針の先ほどのものでもないのだろうが、マッジニさんの言うことが正しいのか、聖書に書いてあることが正しいのかわが命の存在するうちに知りたいような気もします。
  

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ブラシの木には負けていられない伊豆高原のサラシナショウマ

2014年10月25日
庭の片隅に何気なくあった植物です。はじめてお目に掛かったような気がするのですが、聞き及びがあるので多分ほかのことに気が取られていたのでしょう。真っ赤なブラシの木のホワイトヴァージョンと言うところです。よく見るとブラシ状の先に小さな花のようなものがついていました。




人が見落としてしまいそうなそんな小さなところまで、懸命に咲かせているのは健気です。名前は『サラシナショウマ』と云います。キンポウゲ科の多年草だそうですから、去年も此処にあったはずなのに・・・。漢方薬材になるのだそうですが、若菜の時に茹でて晒して食べると美味しいので、「サラシナ」と呼ぶとのことです。どんな味がするのでしょうか。この植物も関東地方ではレッドリストに名を連ねています。失われていくものは美しいのかも知れません。

強烈な言葉をご紹介します。「プラトンやアリストテレスと言えば、長い学者服を着た人としか想像しない。彼らだって人並みの人間で、ほかの人たちと同様に、友達と談笑していたのだ。そして彼らが『法律』や『政治学』の著作に興じた時には、遊び半分にやったのだ。其れは、彼らの生活の最も哲学者らしくなく、もっとも真剣でない部分であった。最も哲学者らしい部分は、単純に静かに生きる事であった」。そしてもっと強烈なことが書かれていた。「彼らが政治論を書いたのは、気違いの病院を規制するためのようなものであった。そして、彼らがいかにも重大なことのようにそれについて語ったのは、彼らの話し相手の気違いどもが、自分たちは王や皇帝であると思い込んでいるのを知ったからである。彼らは、気違い連中の狂愚をできるだけ害の少ないものに抑えようとして、連中の諸原則の中に入り込んだのである」とパスカルは書きました。政治家さんたちが聴いたのなら、なんと返答するだろうかと思うだけで愉快です。こんな言葉があることを知っているわけはない、知っていれば政治家をしている筈はないのだと大いに納得しました。彼らには『単純に静かに生きる』などと言うことは、とても考えられないことなのだろう。  

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来年モードに切り替わった伊豆高原

2014年10月24日
咲いていた花をこいだ後に早くも菜の花が咲くように種を蒔くとの話でしたが、本当にそのようになっていました。種から芽が出て菜の花畑になるようです。12月の下旬には伊豆高原の一番暖かい場所である城ヶ崎のシンボルとなります。


心配していた抜かれた後の花たちは違う場所に移されていてホッとしました。新しく植えるのもなかなか大変なのに、仕事とはいえその労力は大変なものだろうと思います。


之だけの広大な面積に一年中花を咲かせているのですから、多分デザイナーによるところが大きいのではないかと思いますが、それにしてもエネルギーが必要です。

菜の花畑の隣に遠くから見ても美しい優しい緑色をした木が植わっていました。ミモザの木です。来年の春に咲く花の芽がもうできています。桜の咲くころ、ピンク色の桜とミモザの黄色のちょっと意外と感じる取り合わせですが、好きな取り合わせの一つです。ミモザは南フランスから英国に渡って色んな発音があるとのことですが、ミモザと呼ぶのはフランス語です。お洒落なわけだと納得しました。次第に朝の空気が冷たくなり、体も何やら固くなったように感じる時、植物はすでに前を見つめて準備している姿に生命の素晴らしさを感じます。

リヒテンベルグの述べたというこの言葉に思わずニヤッとしてしまいました。『真理を無疵のまま原稿用紙に写し、さらにそれを人々の頭に伝えるためには、数多くの障害を克服しなければならない。虚言者は---真理のもっとも無力な敵である。最も危険な真理の敵はまず第一に、一杯機嫌の人たちのように、有頂天で何もかもについて喋り、何もかもに首を突っ込む著述家であり、第二に、人間のすべての行為の中にその人の全生涯の反映を見る、或いは見たがる、いわゆる人間通を以て自任する人であり、そして第三に、何もかもありがたがって信じ、15の年までに教え込まれたことを何一つ検討することなく、自ら若干の理論を打ち建てる場合も、自ら検討したことのない基礎の上にそれを打ち立てるような善良で敬虔な人間―--そのような人たちが最も危険な真理の敵である』と。どのケースも殆どの人間にありがちなことであると思う。願わくば、どのタイプからも遠く離れていたいものだとも感じますが、果たして吾はどのあたりに一番近いのだろうか。笑ってはいられないかも知れない。
  

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伊東の海の静かな土曜日の午後

2014年10月23日
カワセミを撮るチャンスがないまま無為な時が過ぎていくのが寂しく感じ、あてどなく大川にカメラを持って出かけます。土曜日の午後、ふじの広場のスケートボードに打ち興じる騒々しい賑やかさを通り越し川縁に降りていくと、最近時折見かけるサーフボードともカヌーともつかないものを漕いでいる人に出会いました。




川を遡ったり下って海に出たりと自由に行ったり来たりしています。力が要らなそうで年寄りにもできるかもしれません。河川の改修工事ですっかりカモメの休み場がなくなってしまった河口では、カモメではなく釣り人が現れました。釣りの楽しさはどんなところにあるのでしょうか。食べるためではないとしたら、釣れた時のあの感覚でしょうか。


何も考えずに只管寄せる波の音と小さな魚の命の躍動感を楽しむ事で日頃のストレス、思い煩いを忘れているのかもしれないなどと、勝手な想像を致しました。カヌーも釣りも自然があってこそです。伊東の良いところでしょう。大切にしていってほしいと願っています。

『代議制による支配の目的は、大きな社会正義を実現することでなくて、人々が悪しき支配に服従しながら、それに不平を唱える権利がないようにすることである』・・と恐ろしいことをレフ トルストイが書いています。そういえば、誰もが満足がいくような政治がこの地球上で行われたということを聞いたことが有りません。矮小なことではありますが、政治家とその資金の使い道に関しても今回の騒ぎが珍しいものと言えません。男性でも女性でも同じ過ちを行うということを国民はよく考えた方が良いのではないかと感じます。そろそろ変わっても良いのではないかと・・・。  

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伊豆の『継続は力なり』、細野高原

2014年10月22日
朝はこんな風に明けましたので、予報より良い天候ではなかろうかと勝手に考えました。


それで気になっていた伊豆稲取の細野高原に出かけました。途中は少し日が射し期待通りでしたが次第に雲が厚くなってしまったのが少し残念でした。其れでも平日午前中でしたがススキを見に来ていた人がおられました。






大島がうっすらと空に浮かんでいるように見え、晴れていれば御蔵島まで見えると案内書には記載されています。ススキは別名茅と言い、昔は農家の屋根などに使ったり、家畜の飼料となったとのことで稲取の集落の傍にあるのが頷けますが、規模は仙石原をはるかに凌いでそのダイナミックさに解放感を味わわせて貰いました。11月上旬まで案内バスが下のイベント広場から無料で三筋山まで連れて行ってくれます。雨が降ると花穂が閉じてしまうので少しお天気が続いた後の方が、ススキが自由に空を駆け巡る風の存在を存分に感じさせてくれるかも知れません。このススキのイベントは稲取町挙げての催しです。長く続けることで、きっと仙石原より細野高原と言う意識を都会人に与えることが出来ると感じています。

パスカルのこの言葉に同感しました。『私は、生涯の長い間を、一つの正義が存在すると信じて過ごしてきた。そしてその点で、私は間違っていなかった。なぜなら、神が我々に掲示しようとされたところに従って、正義は存在するからである。だが、私はそれをそのようにとってはいなかった。そして、その点においてこそ私は間違っていたのだ。なぜなら私は、われわれの正義が本質的に正しく、私はそれを知り、それを判断するものを持っていると信じていたからである。だが、私はあまりたびたび正しい判断を欠いたので、ついに自分について、次いで他人について疑心を懐くようになった。私は全ての国々や人たちの変わるのを見た。そしてこのように、真の正義についての判断をたくさん変えた後に、われわれの本性は絶え間の無い変化でしかないことを私は知った』と言うものです。いつも自分が追い求めているのは、何ものにも惑わされず変わることのないものだと感じています。パスカルのような人がこうなのですから、我など、ましておいておや…と言うことです。  

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伊豆高原のクラブアップル

2014年10月20日
以前見た際には桜の木かなと思うように、小さな木ながら桜のような花をつけていたような記憶があります。クラブアップルと立札が立っており小さなリンゴのような実がなっているところです。直径2.5センチほどです。




ヨーロッパや北アメリカで品種改良された園芸種だとのことです。ハナカイドウの仲間で、-30℃でも生きていられる寒さに強い植物とか。和名は「山リンゴ」。ジャムやジュースにすることもできるのですが、大変酸っぱくて、食べた人の顔が「クラビー」になることが語源だと書かれていましたが本当でしょうか。6000年前の地層から炭化したリンゴが発見されたといいますが、それも真偽のほどは不明です。以前はアダムとエバが食べたのはリンゴと思っていましたが、中東にはそのようなものは当時なかったと後で知りびっくりしたことがありました。彼らが食べたのは『善悪の知識の実』であると聖書には書かれていますので、リンゴでなくイチジクだという方もおります。

例のエピクテトスが斯様に記したそうです。『もし君が他人から何も期待せず、何ももらおうと思わないなら、彼らは君にとって、丁度蜂には蜂が恐ろしくなく、馬には馬が恐ろしくないように、ちっとも恐ろしくないであろう。しかしもし君の幸福が他人の手中にあるならば、君は必ず彼らを恐れるであろう。だからまず次のことから始めなければならない。我々に属していないすべてのものを放棄すること、それが我々の主人公とならない程度に放棄することである・・・・』。実感として浅学の我も斯様に思います。創造主以外には何ものにも囚われないことが自由に生きるということだと知っています。  

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伊豆高原はマイティースパイダーの天国

2014年10月18日
伊豆にやって来るまで蜘蛛などあまりお目に掛かったことがありませんでした。花の写真を撮りに行った先では蜘蛛の巣に引っかからないでいる方が難しいほどの、彼らの元気さとその糸の丈夫さに興味を惹かれます。


蜘蛛は7種類の糸を出すと以前本で読んだことがあります。スパイダーマンに憧れてどうしてもビルからビルへ飛び移れるような糸を作ろうと研究しているさる大学の先生がおられるそうです。コガネグモ100匹から3か月かけて5マイクロメートルの糸を19万本束ね、太さ4mm長さ10cmのロープに本当にブル下がってみたのだそうです。計算上は600キログラム迄耐えられるとのことで、見事成功したとのこと。蜘蛛はタンポポのように風に乗って空を飛ぶ習性を持ち、火山噴火の後できた島にいち早く到着したことを生物移住の調査隊が確認したそうです。優れた能力は敬服に値します。彼らの脳の容積は体の大部分を占めているといいます。IQは如何程なのでしょうか。蜘蛛の糸の素晴らしさを製品に利用するために努力を重ねるバイオミメティクスの世界でも、同じようなものは作れないようです。

ゴーゴリーが斯様に書いたそうです。『人間には二様の生き方が出来る。真実の(内面的)生き方と、虚偽の、幻想的な(外面的)生き方である。私が内面的生活と言うのは、人間が単に外的刺戟や印象のみによって生きず、一切のものの奥に彼岸を----換言すれば神を見、自分の生命が自分の満足のために与えられているのではないことを知って、神の名に於いて、自分に与えられた才能を実践的に発揮し、それを地に埋めたままにはしておかない場合のことである』。難しいが魅力ある言葉だと思う。才能は残念ながら持ち合わせがありませんが、創造主が求めておられることに1歩でも近づくことが出来たら望外の喜びであると考えています。  

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