日めくり Evangelical World 伊豆
ちゃんとやって来ている春 伊豆高原城ケ崎
2015年02月26日
足元の植物に目が行くと、フキノトウがいくつも花を咲かせていました。リフォームされた家が買手を求めている物件の庭で。昨年も見たはずのフキノトウなのにとても懐かしい感じがしたのは不思議です。
庭は傾斜がありますが、それを上手に利用して尚且つ野草があちらこちらに見受けられ、自然な感じもまたそれなりに良いものです。今朝は曇天に少し雨が降り出しておりますが、気温はさほど低くないようで、寒がりのくせに今朝はストーブをつけるのを今まで忘れていました。春は確実にやって来たようです。
『我々が自己棄却と呼んでいるものは、己の動物的吾から精神的な“吾”へと意識を移す結果に過ぎない。この意識の移動が行われさえすれが、それ迄は棄却と思われていたものが、別に棄却と言うほどのものではなく、ただ不要なものからの当然の離脱にすぎない、と見えるようになる』とトルストイが書いています。物への拘りは当の昔に失っているが、自分が固執している考えにしても大したものではないように最近は感じる。所詮人間の考えることは、創造者の思考回路には遥かに及ばないと聖書を読むと解ってくるからかもしれない。全知全能の神がいかに不完全な人間を慈しんでおられるかを、多くの人に知ってほしいと思う。
庭は傾斜がありますが、それを上手に利用して尚且つ野草があちらこちらに見受けられ、自然な感じもまたそれなりに良いものです。今朝は曇天に少し雨が降り出しておりますが、気温はさほど低くないようで、寒がりのくせに今朝はストーブをつけるのを今まで忘れていました。春は確実にやって来たようです。
『我々が自己棄却と呼んでいるものは、己の動物的吾から精神的な“吾”へと意識を移す結果に過ぎない。この意識の移動が行われさえすれが、それ迄は棄却と思われていたものが、別に棄却と言うほどのものではなく、ただ不要なものからの当然の離脱にすぎない、と見えるようになる』とトルストイが書いています。物への拘りは当の昔に失っているが、自分が固執している考えにしても大したものではないように最近は感じる。所詮人間の考えることは、創造者の思考回路には遥かに及ばないと聖書を読むと解ってくるからかもしれない。全知全能の神がいかに不完全な人間を慈しんでおられるかを、多くの人に知ってほしいと思う。
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