日めくり Evangelical World 伊豆

寒さに負けていられない、熱海のサクラは満開です!

2016年01月28日
月曜日に湯河原の別荘の写真を撮りに出かけた際、熱海の川沿いにある桜が満開でした。寒桜なのでしょうが、本当に目を疑いたくなるような咲き具合に驚かされました。寒い日でしたが、寒さを一時忘れさせて咲き誇っていました。



河津のサクラもそうなのですが、伊東では四季の花公園の寒桜にメジロがたくさんやって来るのが毎年の楽しみとなっています。今年もそろそろかと思います。小さな集団が賑やかに桜の蜜をついばむ光景は、何時間眺めていてもちっとも飽きません。カメラで追う彼らの動きのなんとのびやかなことか・・・。

『世間一般の人間は、たとい平素は格別頭の冴えを見せなくても、他人の身辺のこととなれば、ただ一つの数値が与えられただけでもそれを手掛かりに、最も困難な問題をすら解くほどの代数の名人なのだということを知るがよい。・・・・・相手は具体的に与えられた数値を直ちにとらえ、その代数的な頭脳の冴えがこの数値を手掛かりにして他の一切の点を究明してしまうからである。好奇心のそそられ方が、この点では極めて強いために、意志が知性に拍車を加え、これによって知性が駆り立てられて、どんな途中の計算が長くても回答に到達してしまう。世間一般の人たちは普遍的な真理に対していかにも鈍感で無関心な反面に、個人的な真理に対しては実に執着が強いからである』とショーペンハウアーが書いていました。さしずめ、芸能人や政治家のスキャンダルが最も顕著な例なのではないだろうか。ショーペンハウアー がこのようにも書いている。アラビアの格言に「敵に知られたくないことは、見方に言うな」「自分の秘密を黙っていれば、秘密は自分の捕虜である。秘密を洩らせば、私が秘密の捕虜になる」「沈黙の樹には平和の実がなる」というのが有るそうだ。メールや言葉に出さねば苦労は無かろうにと思うのだが・・・。  

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寒い伊東の海で訓練に励む掃海艇三羽烏!

2016年01月27日
しなければならない事がたまっている休日は、海をゆっくり眺めている暇が有りません。夕方、家に帰り着いて外を見ると、掃海艇が三隻やって来ていました。301やえやま、302つしま、303はちじょう、そして、すっかり暗くなってから405ちよだ(潜水艦救難母艦)がゆったりとやって来て停泊。


寄り添うように停泊していましたが、これも何かの訓練なのでしょうか。小回りの利くボートが夕暮れの中、伊東港の方向に忙しげに出かけて行きました。今朝は夜の明けるのを待ちかねていたように、三隻の掃海艇はあっという間に見えなくなりました。働き者のようです。昨年は硫黄島でこの三隻が活躍したことが報道されていましたが、今年も命がけの作業をするための訓練に余念がないのかもしれません。

『君が回り道しいしい到達しようと希っていることは、これらを自ら自分に拒みさえしなければ、どれでも今すぐに手に入れられるのだよ。其れには全過去を打捨てて、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向へ向ければよいのだ。敬虔と言うのは、君が自己に与えられた分を愛するようになるためで之は自然が君に定めたものであり、また君をこれに定めたのでもある。また正義と言うのは、君が自由に、そして回りくどいことはぬきに真理を語り、法律に従い、物の価値相応の行為を為すようになるためだ。他人の邪悪や意見や言い草や、また君の周りに蓄積している肉の感覚に縛られるな。それはその感覚を覚える部分の知ったことだ。こうして何時なりと君が去っていく時が近づいたならば、君は他のすべてに別れを告げ、ただ君の指導理性と、君の内なる神的なもののみを尊び、自分がそのうちに生きていなくなることは別に恐ろしいとも思わないが、自然に従う生活をついぞ始めなかったということにはなりはしないかと恐れる。そういう風であれば君は君を生んだ宇宙に値する人間となり、祖国における異邦人ではなくなり、日々起こってくる事柄に対してこれを予期せざることとして怪しむのをやめ、あのことこのことに依存しなくなるであろう』と、マルクス アウレーリウスが書いていました。「自己に与えられた分」と申すものが各自に与えられているのであれば、吾の細やかなる分とはどのようなものなのだろうかと思いをめぐらさねばならない。「あのことこのことに依存しなくなる」ということは実感しているのだが・・・聖書の行間を読む日々が続きそうだ。  

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厳寒の伊豆に弾ける笑顔、ゴールデンクラッカー

2016年01月25日
本来はそういう名前ではないのでしょうが、立札にそのように書かれていました。弾けるような笑顔がイメージらしい。園芸品種かも知れませんが、ユリオプスデイジーの近縁種とのことです。




1月から5月ぐらいまで開花し、葉っぱが特徴的で冬の乾燥期にも生きていけそうな形です。青い冬の空と黄色と葉っぱの緑は色合いとするとマッチするのだろうかと考えました。その割合はどのような物が良いのだろうか・・等々、自然はそんな頭のなかだけの楽しみにも貢献してくれます。それにしても昨日も今朝も、伊豆に来てから経験したことのないような寒さです。東京に長年暮らしていたときにこのような寒さを経験したのだろうかと考えましたが、思い出せません。寒波が早く過ぎてくれないだろうかと祈りたい気持ちにさせられています。

『君が何か外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと事態ではなくて、其れに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことが出来る。また君を苦しめるものが何か君自身の心の持ちようの中にあるものならば、自分の考え方を正すのを誰が妨げよう。同様に、もし君が自分に健全だと思われる行動をとらないために苦しんでいるとすれば、そんな苦しむ代わりに何故いっそその行動をとらないのだ。「しかし打ち勝ち難い障碍物が横たわっている」其れなら苦しむな、その行動をとらないのは君のせいではないのだから。「けれどもそれをしないでは生きている甲斐がない」それならば人生から去って行け。自分のしたいことをやり遂げて死ぬ者のように善意に満ちた心をもって、また同時に障碍物に対しても穏やかな気持ちを懐いて去って行け』とマルクス アウレーリウスが書いていました。自分を悩ますのは自分自身の考えであったと気づくのにはずいぶん時間がかかったし、その思考が己のものとなっていないために、折に触れまた同じ堂々巡りを繰り返しそうな予感もする。  

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寒さを寄せ付けない伊豆高原の色

2016年01月23日
赤は食欲を誘う色彩だそうだ。レストランの内装のカラーもそれに副って考えられていると以前聞いた事が有ります。そんなものなのでしょうか。


確かにこのような強烈な赤い色を見ると、寒さのなかにも力が湧いてくるように感じるとは思います。今朝はどんより曇っており、夜中から始まった相模湾震源の地震が3回あり、今朝5時半ごろには伊豆半島東方沖(何やら懐かしい響きです)の地震もありました。東北大震災以来地球は活動期に入ったとの科学者の見解は本当であろうと思う。天気予報では夜には雪やも知れないとのことです。賑やかなことです。せめてこの赤い色のように、生きるエネルギーを失わずに冬を乗り切っていきたいものです。

『世の立身出世には友人関係と同僚関係とが断然主要な手段である。ところが優れた能力が有れば必ず誇りを持ち、其の為、劣った能力しか持たない人に諂う事の殆どできない人間になってしまう。まして相手が劣った能力しか持たないためにその人の前では優れた能力を包み隠し、否認すべきだということに至ってはなおさらである。これと反対の作用をするのは、自分が劣った能力しか持たないという意識である。この意識は謙虚さとも、人づきの良さとも、愛想よさとも、劣悪な者に対する敬意とも、見事に折り合いがつき、したがって友もできれば、贔屓筋もできる』と、例によって面白いことを言うショーペンハウアーの言葉です。聖書でも人に求められるものの中で謙遜さは重要な点です。能力を持ったことのない吾にとっては、そのような方の思考は想像するしかないが、彼がそう言うのだからそうなのだろう。能力がないにもかかわらず、日々、世との折り合いの悪さを感じるということはどういうことなのだろうか…謙遜さがまだまだ足りないということなのだろうか。  

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伊豆の春の足音、梅一輪の城ヶ崎

2016年01月21日
今年も蝋梅から始まって白い梅の花が咲き出しました。日当たりの良くない場所ではありますが、小さく控えめなその花びらと、蕊の様子の賑やかさに春の予感がして、少し嬉しく感じます。




熱海は熱海桜が満開だそうですし、もうすぐ河津桜も咲き出すことでしょう。この数日は日本列島は大雪と大風が吹き荒れて寒い日々が続いています。みな春を待ちわびているのではないだろうか。

『青年期には直観が、老年期には思考が支配的である。それ故青年期は詩に傾く時期であり、老年期は哲学に傾く時期である。また実際的も、、我々は青年期に於いては直観した事物とその印象に動かされるが、老年期になると、思考によって動かされるだけである。一面これは老年期になってこそ、すでに十分な数の直観的事例に恵まれ、こうした事例が概念の下に包括されるに至ったために、概念に対して十分な意味と内容と信用とを与えることが出来、同時に直感の印象を習慣によって減ずることが出来るということに基づいている』と ショーペンハウアー が述べていました。自己について考えると、この点、年齢はいっていても甚だ未熟だと感じないわけにはいかない。まず、第一に直観と言えるような洞察力がないし、単なる直感も間違いであることしばしばだから。かくて無口にならざるを得ないではないかと、己を窘めることになる。  

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伊豆も凍りそうですが・・・

2016年01月20日
昨日もそして今朝もとても寒く感じると異口同音です。強い風も吹いており、烏が流されて思うように飛べていないように見受けました。頑張れ‼カラスたち…といいたくなります。


伊東は雪が降りませんでしたが、遠笠山道路から見る天城は所々ですが、雪が降ったように見えました。海側を見ると北東には雪を沢山被った丹沢山系が美しい姿を見せています。富士山は真っ白で運転中にあまりじっと見ていると事故になるのではなかろうかと思うほどです。こんなのんびりしたことを言っていられるのも、雪が降らない伊豆だからこそです。寒いとは思いますが、やはり他所から見ると暖かいのです。黄色の小さなツワブキの花は伊豆の冬の花の一つです。陽の光をいっぱい浴びて幸せそうに見えました。

今朝読んだ「言論の自由の歴史的発展」と題された文書から。そこにはこのように書かれていました。『ソクラテスの見解や教えはアテネの青年達の道徳を腐敗させるものと看做されました。このことはギリシャの階層制を牛耳っていた政治指導者や宗教指導者を非常に驚かせ、ソクラテスの死につながった。ソクラテスが、のちに自分に有罪の宣言を下すことになる陪審たちの前で行った次のような弁明は、言論の自由を擁護する演説のうち最も感銘を与えるものの一つに数えられている。『この知恵の探求における自分の意見をこれ以上話してはならない、また、再びそのようにしたことが分れば殺す、という条件で釈放するというのなら、私はこう言わねばならない。“アテネの皆さん、私はあなた方ではなく、神に従う。命と力が有る限り、私は哲学に従うことを、だれであれ出会う人を戒め、説得することもやめない。これが神の命ずることであると確信しているからだ”“アテネの人たちよ、私は更にこう言わねばならない。私を釈放しようがすまいが、好きにするがよい。しかし、わかって欲しい。たとえ其の為に幾度死ぬことになろうと、私が違う行動をとることは決してない”と』。とても想像するだにできない確固たる信念に恐れ入ってしまう。21世紀の現代に於いても、『振り子は自由と抑圧の間を揺れ続けている』とも書かれていました。いくら揺れ続けても、変わらない何かを求める気持ちは誰にでもあるのではないだろうか。  

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伊豆では大雨です。

2016年01月18日
皇居に雪が降った写真が報道されています。東京は5cm積もったらしい。今朝、宇都宮の友が6時ごろ「雪だ~!」と嬉しそうにメールしてきました。それでも、伊東では露地でチューリップが咲いています。




暖かいのと寒いのとはどちらがいいだろうか。住めば都と言いますから、それなりに人間は順応してゆく能力を与えられているのだろう。寒い地方の方は、寒くない方が気持ちが悪いといいます。慣れ親しんだものは天候然り、すべからく捨てがたいものであることは誰もが知っていることです。

今朝も笑ってしまいました。『書物で読んだ思想に席を譲るために自分自身の思想を追っ払うのは、丁度シェークスピアが当時の旅行者を非難していったように、他人の土地が見たいので、自分の土地を売り払うようなものだと、私は思う。それどころか、ある事柄について自分で予め思索しないうちに、其れについて書かれたものを読むのも、有害と言わねばならない。 なぜなら新しい材料と一緒に、それに対する他人の見方、他人の態度がその人の頭の中に紛れ込むからである。もともと人間には怠惰と無関心から、自ら努力して思索するよりも、出来合いの思想を受け入れて用を済ませようという習性が有るから、ますますその確率が大きい。この習性がやがて根を張ると、もはや思想は溝に注ぐ小川のように、ただ一定の通路を進む。そうなると、自分自身の新しい思想を発見することは二重に困難になる。独自性のある思想を持つ学者がめったにいない所以もそこにあるのである』とショーペンハウアーが書いているとトルストイが述べている。読書をする際にはこのことを踏まえていなくてはならないのだと共感を覚えますが、彼のものの表現の仕方に面白さの方が先に来るのは凡なる吾であるからだと思う。

  

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伊豆高原のこれな~んだ②

2016年01月16日


キダチアロエが元気に太陽に向かって背伸びしている光景です。勿論花も咲いているのですが、花よりも葉にあるとげとげの形が浮世絵に出てくる波の様で面白いと思いました。この棘は何か意味が有るのでしょうか。調べてみましたが、見つかりませんでした。伊豆では冬の間に赤い三角帽子のような花をつけるポピュラーな植物です。しかしながら、ワシントン条約で輸出入に制限がかけられているものでもあるというので、貴重なもののようです。西暦1500年頃ポルトガルの宣教師が日本に持ってきたのだそうですが、寒さに強い植物ですので生き延びたのでしょう。下田までの135号線の沿道にも、暖かさを強調するように並んで、観光客を歓迎するパフォーマンスには欠かせません。

人のあり方が、人の有するものや人の印象の与え方よりも、人の幸福に寄与する事がはるかに大であること・・を踏まてショーペンハウアーが『どんな場合にも肝心なのは、人のあり方、したがって人の本来有するものである。けだし人の個性は終始一貫何処までも人に付きまとい、人の体験する事物は全て個性に彩られるからである。あらゆる点で、また万事につけて、人のまず享受するところのものは、自己自身である。・・・・・個性は継続的・持続的に、多かれ少なかれ一瞬も働いていないときはないが、これに反して他の一切のものは結局時折、機に臨み折に触れて、一時的に働くにすぎず、そのうえ世の有為転変にも服している。全く外部だけから襲ってきた不幸が、自ら招いた不幸よりも、平然と耐えられるのは、このためである。…要するに健全な精神が、我々の幸福のためには第一のもっとも重要な財宝である』と書いていました。健全な精神とは何か?と考えてみる。授かるものか、それとも培うものなのか。吾としましては培っていくものと言うのであれば、努力せねばならないと思うが、あまり時間がないとも思うし、もっと早く気が付けばよかったかもと思う。  

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伊豆高原のこれな~んだ?

2016年01月15日


里山ガーデンに花がなくなって、写真を撮りあぐねておりましたら、友が電話をくれました、バナナの花が・・・と。はて、バナナの花とは一体どんなものなのかと考えてみましたが、思い当たりません。行ってみると、本人は食べたものに当たったとかでダウンしていました。花と言うには程遠く感じる葉っぱの塊のように見えました。調べてみると、そのうち中から花が多分現れて(ひょっとしたらこの葉っぱのようなものが花なのかも知れませんが)、後に小さなバナナが出てくるようです。暇な方でしたら、観察記録のように写真を毎日撮って見るのも良いかもしれません。それにしても露地でこのような植物が生きていられるという暖かさに、感激しない人がいるでしょうか。今日は朝から雪を降らせるのではないかと思わせる雲が空を次第に覆いつつあります。北極から寒波が来襲との予報です。

殊の外低温であるために、何か心が温まる文章でもないかと思いラッセル卿の本を読んでいたが、温まらなかった。其れでは挑戦的なショーペンハウアーの言葉はと思い探してみました。『一切を自分に結びつけて考え、どのような思想を見てもそこから直ちにまっしぐらに自分へ立ち帰る哀れむべき人間の主観性を大がかりに立証するものは、占星術である。占星術は大きな天体の運行をみすぼらしい自我へ関係づけ、天の彗星を地上の争いやくだらぬ事件と結びつける。ところで、こういうことはいつの時代にも行われ、すでに最古の時代にも行われていたことである』との文章を見つけました。彼らしい表現であると笑いました。確かに聖書に於いても呪術は神が忌み嫌われるものの一つだと書かれています。現代でもその手の類の方はたくさんおられ、人気を博しているようですが、そんな人々がこの文章を見たらなんと言うだろうかと考えてちょっとエキサイティングな気分になりました。温まりはしませんが。  

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伊豆の水温む春はいつか・・・・

2016年01月14日
明るい陽射しの下の流れは、春の先触れのように輝いていました。水の中の藻と浮かんだ病葉とが季節の移り変わりを見せていました。




小さな流れには暖かくなるとカエルが卵を産みます。伊豆半島の八丁池はモリアオガエルが産卵する場所として有名ですが、まだ行ったことが有りません。健脚なら挑戦してみるのですが、おいそれとはいかない我脚であることがちょっと残念です。

昨日の事、火傷した我子を放置して死亡させた両親が逮捕されたニュースに思わず耳を塞ぎたくなりました。神をも恐れぬ所業とはこのことだろうと・・・。『“神は存在しない”という前提から出発した社会は、すべて予期しない結果に到達する。凡そそのような社会は、この世の仕組みとして、偶然や、無限の欺瞞の羅列から成り立っているので、個々のどんな偶然や欺瞞にも勿論、最早誰一人驚こうとしないからである。其れゆえ我々の生活の中に起きるどんなひどい出来事も、誰一人驚きも騒ぎもしない。これは神を信じない社会の当然の成り行きである』と、レフ トルストイが書いていました。そして、『我々の社会が陥っている悲惨な状態の原因は、上流階級の人々が全然信仰なしに暮らしながら、その信仰の欠如を、ある者は偽ってまだ外的、宗教的形式を信じているふりをすることによって、あるものは大胆に己の無信仰を宣言することによってまたある者は乙に構えた懐疑主義によって、さらにある者は、利己主義を合法化し、それを宗教的教義に高めることによって補おうとしている点にある』とも続けています。聖書を読んでみれば、神なき人間の悲惨さの歴史の書であることがわかります。機会を得て一度読んでみるのをお勧めしたいといつも考えています。  

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